圓照寺略史

開創

 圓照寺は源頼朝の甥にあたる源阿佐美之介(1188年・文治4年~1266年・文永2年)が開創したと伝えられています。寺紋は笹りんどう(清和源氏の紋)になっていますが、これは当山の開基が源氏(頼朝の甥)であったことによります。

 阿佐美之介は、親鸞聖人鎌倉ご逗留の際、聖人に帰依し弟子となり聖人より法名「釈明願」を賜り、鎌倉の名越坂に寶満寺(圓照寺の元の名)を建立したと伝えられています。1224年(貞応2年)、今から約795年ほど前のことであります。

 近年まで鎌倉市の名越坂下に当山の前身である寳満寺の名が入った「寶満寺畑花見畑」という地名が残っていました。

鎌倉から三崎へ

 1572年(元亀3年)前後には三崎の宝満町(現在の三浦市三崎1丁目、2丁目あたり)に移転していたようです。当山には、三崎城主・北条氏規の御朱印状が残されています。当時の交流がわかる貴重な資料として大切に保管しております。

 1614年(慶長19年)には、徳川家康の水軍 大坂冬の陣進発の船手勢揃いを寳満寺境内にて行いました。1620年(元和6年)戦勝祝いとして三崎奉行・向井兵庫頭より現在地を寄進され、ここに移転しました。このころ第11世住職・釈乗善のとき、寳満寺を圓照寺に改めました。また、本山より許可を受け院号を寳満院と称するようになりました。                

 1818年(文政元年)頃、第23世釈永壽のとき、これまで名乗っていた山号・厳石山を香水山に改めました。昔「白水流しの圓照寺」と俗に歌われたのは近所に住む方々が圓照寺境内の井戸で米をといだ白いとぎ汁が境内の梅林の下に流れて行く様をいったものであります。香水山と称するのは、水が豊富できれいで美味であることからきているといわれています。